メモ帳

ただのメモです

兄妹の幻想について フラニーゾーイー

サリンジャーの遺作が2015年から2020年の間に出るとのことだが、それまでに何とか原文を読める程度の英語力を身につけたい。今はまだペーパーバックと辞書をにらめっこしても、ほとんど読み解けない。内容は頭に入っているのだけれど…。
新訳の文庫本が出た際に、旧訳のフラニーとゾーイーを読み比べてみたりしたけれど、もう内容も知り尽くしているからか、どっちで読んでも受ける印象に大差はなかった。読む度にやっぱりこの兄妹の絆に感じ入ってしまった。
私には年の近いきょうだいがおり、小さい頃、家にいる時はいつもごっこ遊びをして遊んでいた。そして、一人っ子が自分だけの世界に没頭して人形と遊ぶように、私たちは私たちの作った世界の中で始終遊んでいたのだった。今思えば昔の私たちの関係は、きょうだいというより双子のそれに近かったのかもしれない。テレビも漫画も雑誌も同じ物を見て、殆どの話題を共有していた。お互いにしか通じない共通言語めいたものすらあった。
フラニーとズーイーにはそれほど共依存的な関係はない。むしろサバサバしていて、フラニーは明らかに口うるさい兄を煙たがっている。
ゾーイーは現在俳優として活躍している自分や、俗っぽいプロデューサーや何かの存在すらも肯定できており、一度自分がはまり込みそうになった泥沼に、どっぷりはまり込んでしまったフラニーを何とか掬い上げようと喋りまくる。兄妹愛ゆえの行動ではあるが、その態度は自分にとって分かり切った問題に悩む妹をなんとなく冷めた目で見ているようにも受け取れる。その痛烈さがフラニーに伝わってしまい、彼女は余計耳を塞ごうとする。ゾーイーはもう一人の兄・バディーの名を騙って妹の説得を試みるが、あっさりバレてしまう。
その膠着状態を破ったのが彼らの長兄、今は亡きシーモアの話していた「太っちょのおばさん」だ。
あの一言で、こんがらがったフラニーの情緒の糸はすっかりほぐれてしまった。まるで叙述トリックの種明かしをする最後の一言のように、それまでの全てが綺麗に昇華されてしまうのだ。
太っちょのおばさんは、フラニーとゾーイー兄妹のいわば共同幻想ともいえる存在だ。シーモアはグラースきょうだい全員が出演していたクイズ番組「これは神童」において、演技をする意味として、末の弟妹に架空の聴き手として太っちょのおばさんを想像させた。
シーモアは一連のグラースサーガの短編群で中心となる人物でありながら、その最初の一編において自殺を遂げてしまうという何とも特異なキャラクターである。彼は天才で、死後もきょうだいにその影響を及ぼし続けている。死後、彼が天才だったことを周囲の身内が語るという形式は、ライ麦畑のアリーにも通じる。
この長兄にまつわる伝説のような数々の思い出も、ある意味ではグラースきょうだい独自の幻想に近いのかもしれない。問題が解決したのは、はたしてゾーイーの手柄なのか、やっぱりシーモアの手柄なのか…。
とにかく、兄妹間で共有される幻想を描いたこの部分に、私はこの物語の魅力があると思う。
また別のきょうだいの物語、例えば赤川次郎の「ふたり」だったり、アゴタ・クリストフの「悪童日記」やクリストフ自身と兄との話にもすごく感じ入った。きょうだいの絆というものの替え難さ、他人の立ち入れない領域。私はそれを知っている、いや知っていた。
いつしか相手との同一感は失われ、私たちはまた孤独な1人に戻っていく。
フラニーもこの話のあとはやっぱり1人で戦っていくのだろう。あの長い眠りは、その力を蓄えるための、いわば戦士の眠りなのだろう。